誰かのプライバシーを侵害していないか?危険に晒していないか?と考えると、他者が関わる実況は全て危ういと感じてしまうようになった。
よく考える、「その実況必要?」
「いいね!」を稼ぐために家族や大切な人をネタにしない。プライベートをコンテンツにして「何か」を稼ぐ覚悟があるというなら、その「何か」が本当に欲しい物なのか考える。その家族や大切な人みんなも同じ覚悟を持っているか考える。
よく考える、「その『いいね!』は本当に欲しいもの?」
誰かのプライバシーを侵害していないか?危険に晒していないか?と考えると、他者が関わる実況は全て危ういと感じてしまうようになった。
よく考える、「その実況必要?」
「いいね!」を稼ぐために家族や大切な人をネタにしない。プライベートをコンテンツにして「何か」を稼ぐ覚悟があるというなら、その「何か」が本当に欲しい物なのか考える。その家族や大切な人みんなも同じ覚悟を持っているか考える。
よく考える、「その『いいね!』は本当に欲しいもの?」
どうしても必要な情報公開は別のアカウントで行うことにして、普段は「情報収集アカウント」でログインして閲覧のみを行う。
本当に信頼できる情報は有料のオンライン・サロンで信頼できる有識者から得る。
これで、情報に溺れることがだいぶ減る用に思える。
車の中で話すような会話って、そこらへん歩いている人に向かって大声でするか?
って考えると No だ。
利用層が一定の層を超えてしまったSNSでは、パーソナルな場所で交わされるべき会話がパブリックスな場所に対して大声で発せられているようなものだと思う。他者とは、ある程度の物理的な距離感があるからこそ発していた言葉が、誤って意図しない相手にまで届いてしまう。
親しい間柄となる前に、その人に認めてほしいと思うことってあるだろうか?
これも No だ。まずはお互いの人となりを把握しあうのではないだろうか。
不特定多数から簡単に承認要求を得るためのツールとして、SNSを利用すると、他者との段階的な関係構築が築かれるのを飛ばして、擬似的な関係性が築かれたような錯覚を得てしまう。結果的に、関係性の距離に違和感が生じる。それは、親しさの誤り含んだ距離感を生んでしまう。
物理的な距離が分かりづらい世の中では、人との物理的・関係的な距離感の誤りに気をつける。
作品に触れた際のコンテキストによって受ける印象が変わる。映画や小説、音楽、どんなエンターテインメントでも同じかも知れない。
善と悪はどこからやってくるのか
最初観たときにには、その答えが分からなかったんだけど、二度目は分かった。
思いを馳せる際、最近は「あ、『デイアインドナイト』事案だ」って思うようにしてる。自分が危うい時もそうだし他人がそう振る舞っているときにも。
数ヶ月前にAmazon Primeにて観たやつ。
細田佳央太演じる町田くんが帰ってくる家の前で関水渚演じる猪原さんが待っているシーンが特に印象に残った。「人を好きになった時のどうしていいか分からない感情」が見事に描かれている。なるほど、これか。
『町田くんの世界』における関水渚の演技は素晴らしい。コレがデビュー作というのも納得。振り切ってる。
この映画を見る前から、誰にでも優しくするのを止め始めていたが、そうする理由が言語化された。
去年カウセリングに通う機会があり、そのとき吐き出した自身の中にだけあった感情がだいぶ表に出てきて、自分を理解するきっかけとなった。相手優先ですべてを進めると相手からはいい人だと思われるが、一方で気づかぬことろでストレスが蓄積されていたようだ。
「徳を積めそうだから、この選択をする。」
そういう判断基準を捨てた。そもそも徳とは何だったのだろうか。
本当に大事にすべき人にだけ優しくすることが、真の優しさだ。自分に正直になろう。